乃木神社は「東京都港区赤坂8丁目11−27」にあります。
乃木坂駅すぐのところにありますね。それではいきましょう。

地上に出たら乃木坂なんですね🤔

神社の前に来ると立派な鳥居と狛犬が出迎えてくれます。

乃木神社境内案内図があります。これがあるとわかりやすくてありがたいですね。乃木将軍の自宅も残っているんですね😳

手洗舎です。なんか他の神社と比べてもめちゃくちゃ立派じゃないですね😳

水量が豊富ですね。

二の鳥居です。こちらは木製ですね。銅板が気になりますね。

乃木神社の碑ですね。書き起こしてみましょう。
こちらの銅板は経年による青錆や摩耗があるため、一部の文字が潰れており判読が難しい箇所があります。判読できた部分を中心に、当時の表記(旧字・カタカナ交じり文)のまま書き起こしました。
乃木神社之碑
碑之社神木乃 (右から左に読みます:乃木神社之碑)
※碑文は右から左に向かって縦書きで刻まれています。不鮮明な箇所は
[判読困難]としています。大正元年九月十三日夜明治天皇ノ
霊馭宮城ヨリ青山葬場地内葬儀所ニ
遷御アラセラルル時刻ニ際シ陸軍
大将乃木希典夫妻自刃シテ大
将ニ殉セルナリ聖[判読困難]凶報伝ハルヤ
内外ニ響ケテ其忠烈ニ感擧セ[判読困難]
ハ莫大ナリキ其時東京市ニ在ル
[判読困難]ナル有志ト謀リテ不朽ニ伝ヘント
[判読困難]ニ造営シ大将夫妻ノ霊ヲ祀ル社
ヲ建ツル事[判読困難]長クシテ天地ト倶ニ
[判読困難]シテ[判読困難]ヲ[判読困難]モ東京ニ適セシ
シテ三井岩崎[判読困難]大倉住友安田
[判読困難]古河[判読困難]等ノ諸家亦金員ヲ
[判読困難]大江新太郎氏[判読困難]
[判読困難]ニ[判読困難]シ翌年十一月一日内
[判読困難]マ遂ニ[判読困難]座ヲ奉行シ大正十二
[判読困難]ニヨリテ東京市ノ[判読困難]地ニ選
[判読困難]完成スルニ[判読困難]江戸
門尖形ノ巨石ヲ以テシテ本社及
ト倶ニ市内ノ名跡トナル[判読困難]ニ乃
者日ニ踵ヲ接シ祭日ニハ参拝
[判読困難]年ト共ニ崇敬ノ念弥々深シ
[判読困難]茲[判読困難]ノ責ニ[判読困難]クルヲ覺フ
昭和九年五月
東京乃木神社造営會會長陸軍大将功一等男爵 荒木貞夫 篆額
従四位勲三等[判読困難] 撰并書
左下の連名(一部)
東京乃木神社造営會建築委員長陸軍少将男爵[判読困難]
佐藤[判読困難][判読困難][判読困難]
かなり古いので摩耗などで判読できない文字がありますが、この神社が設立された理由が書かれているようですね。

他にも碑がありますね。書き出してみましょう。
乃木講誓詞之碑(上部タイトル)
碑之詞誓講木乃 (右から左に読みます:乃木講誓詞之碑)
※碑文は右から左に向かって縦書きで刻まれています。
【右端:導入】
乃木講誓詞
陸軍大将従二位勲一等功二級男爵乃木希典遺志
【中央:誓詞五箇条】
一、聖訓ヲ奉行シ 我身ヲ清メ
一、質素倹約 我家ヲ治メ
一、献身奉公 國憂ヲ分ツ
一、熟慮断行 正義ヲ践ミ
一、至誠一貫 皇運ヲ扶ケ奉ル
【左端:日付・建立】
昭和七年九月
乃木講建立

乃木将軍の殉職に対して竹添教授が読んだ「雙殉行」だそうです。書き起こしますね。
雙殉行(そうじゅんこう)
井々 竹添光鴻 大正元年九月作
【漢詩本文】
※石碑では上下2段に分かれて刻まれている対句を、分かりやすく左右に並べています。
- 戰雲壓城城欲壞 / 腹背受敵夜突圍
- 聯隊旗分臣所掌 / 爲賊奪去罪莫大
- 旅順巨砲千雷轟 / 骨碎肉飛血雨腥
- 二萬子弟爲吾死 / 吾何面目見父兄
- 青山駛道連朱闕 / 萬國衣冠同出殯
- 霊輿粛々牛歩遅 / 金皷不鳴簫管咽
- 吊砲一響臣事終 / 剖腹明志何其烈
- 旁有蛾眉端坐伏 / 白刃三刺噴血紅
- 遺書固封墨痕濕 / 青史芳名垂萬古
- 言々都自熱腸迸 / 鬼哭神恫天亦泣
- 嗚呼以身殉君臣節堅 / 舎生從夫婦道全
- 忠魂貞靈長不散 / 千秋萬古侍桃山
【左側の刻銘(後年の寄進・再建記録)】
漢詩の左側には、後年にこの碑が寄進・整備された際の記録が刻まれています(一部風化のため判読困難)。
- 寄進
- 昭和五十六年七月
- 肥後[判読困難]
- 乃木大将の義弟 湯地[以下判読困難]

先ほどの漢詩を詠んだ竹添井々先生之碑がありますね。この神社は碑が多いですね。

竹添井々先生の略歴も書かれていますね。書き起こしてみましょう。
竹添井々略歴
竹添進一郎、光鴻(こうこう) 号は井々(せいせい)、天保十三年天草郡大矢野島に生る。
出(い)づ熊本 下津久馬(しもづきゅうま)の門に学び、時習館居寮生(じしゅうかんきりょうせい)となる。幕末戊申の役には肥後藩の参謀。
時習館の訓導助勤後、明治五年から七年まで玉名郡伊倉村に開塾。
上京仕官、詩文の才を認められ朝鮮公使、東京帝大教授となる。
桟雲峡雨日記(さんうんきょううにっき)、論語会箋(ろんごかいせん)、毛詩会箋(もうしかいせん)、春秋左氏会箋(しゅんじゅうさしかいせん)等の著述多し。文学博士。
大正六年歿七十六歳 墓は東京小石川の護国寺

先程確認した碑の位置はこんな感じです。奥にある白と赤の鳥居が気になりますね。行ってみましょう。

鳥居がいっぱいあるのと。どちらが入り口なのでしょうか🤔白い方が入り口らしいので、そちらから参拝します。

立派な鳥居がたくさん繋がっていますね⛩️

赤坂王子稲荷神社です。真っ赤っかですね。

拝殿が見えてきましたね。都心にある神社とは思えないほど木々が茂っています。

おみくじ売り場がりますね🤔結構大きいです。

こちらは尚武館ですね。

拝殿です。雰囲気でていますね。

拝殿の左側には教育の日があります。

教育の碑の説明がありますね。書き出しましょう。
教育の碑
明治天皇御製
教育
いさをある人を
をしえの親にして
おほしたてなむ
やまとなでしこ
明治四十年一月に御祭神乃木将軍が学習院院長に任命された頃に生徒心得の為に明治天皇より賜った御製であります 乃木将軍のような国家に勲功のある立派な人を学習院院長にして 大切な皇国の未来を担う子弟の教育に当らせたいという明治天皇のお気持ちがこめられています
この碑は当時の御歌所所長 高崎正風氏が謹書したものを刻んだものであります

横にはさざれ石がありますね。

回廊に入りました。
ここの回廊の風鈴の音が風情があっていいんですよね。動画で聞いくことができます。

回廊の突き当たりに鳥居が見えますね。

正松神社がありますね。

正松神社についての説明がありますね。書き出しましょう。
境内摂社 正松神社(せいしょうじんじゃ)
昭和三十八年一月二十二日鎮座
御祭神
- 玉木文之進正韞命(たまきぶんのしんまさかぬのみこと)
- 吉田矩方松陰命(よしだのりかたしょういんのみこと)
御鎮座の由来
玉木文之進先生は、幕末維新に際し多くの偉人傑士を輩出した長州萩の学者であり、松下村塾の開祖であり、吉田松陰先生は、玉木先生の甥に当り、その村塾を受継いで幾多の國士を養成せられた大教育者であり、國事に仆(たお)れた烈士であります。
乃木将軍は松陰先生の弟弟子として玉木先生に薫陶せられ、又松陰先生を深く敬い、之が人格形成の基になったものと拝察致します。
依て乃木神社戦災復興竣成を機に萩の松陰神社より二柱の御分霊を請受け、境内に鎮祭した縁の神社であります。
乃木神社は日本を日露戦争勝利に導いた乃木将軍を祀っています。今もその偉業を讃えられているのがよくわかります。
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<執筆者プロフィール>
予備自補軍曹
経営学修士(MBA)
予備自衛官(技能)
民間人から予備自衛官補(技能)、そして予備自衛官になりました。休日はお城や神社仏閣、戦争遺跡を見歩いているので、面白そうなものを紹介していきます。
姉妹ブログとして優待太郎の名前で「MBAホルダーが保有している株主優待銘柄」も運営しています。
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