川越氷川神社は「埼玉県川越市宮下町2丁目11−3」にあります。
駅からは結構離れますが、途中見るものは多いので気づいたら到着した感じです。

川越氷川神社に入る前にそばを流れる新河岸川を見ていきましょう。ここはNHKの全国放送でもよく出てくるところで、桜の時期など名所ですごく綺麗です。
この動画はちょうど川を船で移動しているところです。蝉の声と相まってなかなか風情がありますね。これも全国放映されていますね🤔

神社に向かうと大鳥居の前に風車がありますね😳

大鳥居に到着しました。周りの白い煙が気になりますが、なんなのでしょうか🤔
煙の正体を動画で撮影してみました。暑さ対策でミスト発生装置を設置しているのですね😳これは参拝者に優しい設備ですね☺️

鳥居に説明文とは珍しいですね。書き出してみます。
氷川神社大鳥居
明神型・杉材
平成の御代替わりを奉祝し同二年に建立された高さ十五㍍の大鳥居は、木製のものとしては国内随一の規模を誇る
(笠木の幅二十四㍍・柱周三.四五㍍)中央扁額の社号文字は幕末の幕臣勝海舟の直筆によるものである。
この鳥居は意外と新しいですね😳でも社号の文字は勝海舟の直筆というところに歴史を感じます。

神社内の庭園です。竹籠がぶら下がっていますね。中には風鈴が入っています。

庭園には小川があり、そこにこの人形を流すと自身が清められるそうです。

神社への出入り口は大鳥居とは別にもあります。元々こちら側が昔はメインだったようです。こちらには風鈴の門があります。

なので手洗舎もこちらにあるようです。

こちらが拝殿になります。

それにしても至る所に風鈴がありますね。

ベンチに座ろうかと思ったのですが、風鈴があるので座れないですね😅

舞殿も立派な作りですね。

海老には風鈴はありませんが、灯籠がいい雰囲気を出していますね☺️

回廊の途中に護国神社がありました。

ここの護国神社は他とはちょっと違うようですね。書き出してみましょう。
川越市護国神社
例祭日 四月十二日
西南ノ役以降の川越出身の英霊二千九百七十柱を奉斎する
明治十四年七月十二日当時の川越町長岡田秋業等が内務省の特許を受け招魂社として建立し例祭日を西南ノ役出征の日に因み四月十二日と定めた
以来 祭祀の主催は旧士族の温知会 在郷軍人連合分会と引き継がれたが 昭和十五年川越市議会の議決により川越市の公祭となり 同年社名を護国神社と改めた
昭和十年の社殿改築遷座祭には山本五十六中将(当時)が参列し盛大に斎行された
国と郷土川越とを守るために清らかな命を捧げられた英霊のもとには今日も多くの市民が集い慰霊の誠を捧げ続けている
山本五十六中将も参列したとは凄いですね😳それくらい重要な神社なのですね。

神社から新河岸川につながる道があります。こちらは旧上尾街道になるそうです。ここにも風鈴がいっぱいありますね。
風鈴の動きを伝えたいので動画で撮影しました。風通しがいいのですごい勢いで回っていますね。

この坂道は神社とはまた違うのですね😳書き出しましょう。
旧上尾(あげお)街道
所在地:川越市宮下町
この坂道は、明治時代まで上尾街道として人々が往還し、上尾街道はここから東に水田地帯を貫いて入間川、荒川の流れを渡り、上尾宿(現在の上尾市)に至る中山道の脇往還(わきおうかん)としても大切な役割を果たしていた。
特に、川越と江戸を結ぶ「川越夜舟」で名高い新河岸川(しんがしがわ)の舟運が発展するまでは、荒川が物資流通の大動脈として盛んに利用されたので、老袋(おいぶくろ)河岸や上尾側の平方(ひらかた)河岸も物資の集散場として栄えた。このため、河岸に通じるこの街道は、人馬の往来がしきりであった。
昔は、この坂の途中には冷たい水の湧き出る泉があって、街道を行く人々の疲れをいやしたという。
昭和五十八年三月 川越市
最初に川を見ましたこんな歴史があったのですね🤔
確かに街道の横から湧水が沸いていますね。涼しそうな音だったので動画で撮影しました。

街道の入り口まで降りてきました。しめ縄がありますね。

地元のオリンピック選手の碑ですね。書き出してみましょう。
第11回ベルリンオリンピック(1936)出場アスリート
鈴木聞多命 顕彰碑
(すずき ぶんた の みこと けんしょうひ)
旧制川越中学校(現 県立川越高等学校)在学中、昭和5年(1930)の全国の陸上競技大会において100mで2位を達成するなど多くの輝かしい成績を以って慶應義塾大学に進学、大学でも国際大会で次々に好成績を収め、昭和11年(1936)の第11回ベルリンオリンピックに出場しました。100m走では第2次予選敗退となりましたが、彼の走りは当時の国民に勇気と希望を与えました。そして次の東京オリンピック(昭和15年)での活躍を誰もが期待しましたが、戦争により中止となったため、大学を卒業後は(株)日立製作所に入社。その後陸軍将校の途を志し、再び陸上競技の場に戻ってくることはありませんでした。
「陸上競技に愛を、記録に夢を、練習に心を」後輩たちに常に話していたこの言葉には、練習を重んじた彼の精神が表れています。[1]
鈴木聞多 経歴
- 大正2年(1913)4月1日:埼玉県比企郡三保谷村大字宮前(現 川島町宮前)に生まれる
- 父:鈴木晴三、母:まつ、兄:誠一【中学19回】
- 大正8年4月:三保谷村立三保谷小学校[現 川島町立つばさ郷小学校]入学
- 大正15年4月:県立川越中学校(現 県立川越高等学校)入学
- 昭和6年2月:同校卒業【中学29回】
- 昭和6年4月:慶應義塾大学予科入学
- 昭和12年3月:慶應義塾大学法学部政治学科卒業
- 昭和12年4月:(株)日立製作所入社
- 昭和13年1月:旭川連隊入隊
- 昭和14年(1939)7月10日:中華民国(現 中華人民共和国)河南省沁陽県常平付近万高地にて戦死。二階級特進し陸軍歩兵少尉(満26歳)
- 昭和16年2月:勲六等瑞宝章を賜る
主な競技歴
- 昭和10年(1935):日満対抗陸上競技大会 100m優勝(10秒5)
- 昭和11年(1936):第11回ベルリンオリンピック 100m走(2次予選敗退)、400mリレー走出場
- 国内対抗試合で主に短距離においてメダル多数獲得
「地球が一公転するごとに季節の四季は巡る。何度でも巡ってくる。だが、青春、朱夏、白秋、玄冬……人生の四季は一回限りである。人は皆いずれかの季節を、いま生きている。中には若くして逝き、白秋、玄冬を見ずに終わる人生もある。だが吉田松陰は、人は十歳で死んでも、その人なりの人生の四季を生きて死ぬのだ、といっている。二十九歳の若さで生涯を終えた松陰自身が、人生の四季を堪能して旅立った人なのだろう。」[2] 聞多氏も二十六歳という短いしかし凝縮された人生 of 四季を生き切った人なのだ。大正時代に生まれ、昭和に生き、祖国のために戦い、現在の豊かな日本の礎になられた方々を尊敬しそのお一人である鈴木聞多氏に感謝します。
人生二度なし。与えられた四季を想い、志を立て、今を一所懸命生きる。
(顕彰碑奉納者)
右下銘板
- 奉納:澁谷英明(川越市脇田本町、【高校39回】)
- 賛同:鈴木隆之(比企郡川島町宮前、鈴木聞多命子孫)
- 参考文献:
- [1] 「栄光を夢見た男の記憶」を参考とした
- [2] 月刊『致知』2008年4月号より
- 建立日:平成31年(2019)2月11日 奉納
地元では相当期待選手だったのでしょうか。ベルリンオリンピック時の選手なのにこの石碑を作ったのは平成最後の年です。それだけ素晴らしい人で地元に愛されていたのでしょう。
川越氷川神社はそこまで敷地は広くないのですが、見どころが満載の神社ですね☺️特に春から夏にかけてはイベントも多くて楽しめます。川越は小江戸といわれる観光地なので、数日かけて堪能するのがいいと思います。
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<執筆者プロフィール>
予備自補軍曹
経営学修士(MBA)
予備自衛官(技能)
民間人から予備自衛官補(技能)、そして予備自衛官になりました。休日はお城や神社仏閣、戦争遺跡を見歩いているので、面白そうなものを紹介していきます。
姉妹ブログとして優待太郎の名前で「MBAホルダーが保有している株主優待銘柄」も運営しています。
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