城跡

【お城VOL.1】鹿島城(鹿島城山公園)

鹿島城址は「茨城県鹿嶋市城山1丁目1」にあり、鹿島神宮の近くにあります。現在は鹿島城山公園として市民の憩いの場として残っています。

それでは現地を見ていきましょう。

鹿島城址の遊歩道

写真を撮り忘れたのですが、公園内に広い土の駐車場スペースがあり乗り入れることができます。駐車料金は無料です。お城の外周に遊歩道が作られており、1周おおよそ2〜3kmを散策することができます。
それでは歩いていきましょう。

鹿島城址からの眺望

駐車場から外周を反時計回りに歩いていくと、鹿島城址で一番眺望の良い場所になります。正面の川は「鰐川」で、見える橋は「神宮橋」と「北浦橋梁」になります。写真だけだとわかりずらいですね。動画で全体を確認してみましょう。

目の前に東関東自動車道があるので、自動車の走行音を拾っていますが、環境はいいところです。

鹿島城址の碑文と案内看板

景観の良い場所には人が集まるので、碑文や案内板があるのはお約束です。それではみていきましょう。

看板の文字を書き出します。

鹿嶋城址記念碑【現代文訳】
従三位勲一等子爵 福羽美静書

西は浪逆浦(なさかのうら)に面し、東は三笠山を背にして、左は神野をひかえ、右は鵄末岡(とびすえのおか)と田んぼを隔てて、その中心点に高く鉾をふせたような地形が、すなわち鹿嶋城址(通称城山)であって、かつては鹿島氏の居城があった。
鹿島氏は、鎮守府将軍 平貞盛から出た。貞盛の父の国香は、常陸大掾(ひたちのだいじょう)となって多くの荘園を所有していた。貞盛は、その領地を諸ぎの継承にあたえ、多気(現在のつくば市北条城山)に居をかまえ常陸大掾を継いでいた。その支族の督孫の清幹(きよもと)は吉田に住んでいた。清幹の第三子は成幹といい、はじめて鹿嶋に居を定めた。したがって鹿島を氏とし、鹿嶋冠者(かじゃ)と称した。成幹の子の政幹(まさもと)は鹿島三郎と称し、養和元年(一一八一)三月、源頼朝の命によって鹿島神宮総追捕使(そうついぶし)となった。これに先立って頼朝は、佐竹義頼を追討するにあたり、鹿嶋の神(武甕槌神)に起請文(ききょうもん)を書いて戦勝を祈願し、武士一人を派遣して神宮に奉仕させた。
その後、政幹は、最初に宮本郷粟生村(旧松樹村粟生、今の鹿嶋市粟生)に住み着いた。後にここに城を築いて移り吉岡城といった。政府より八世の孫の幹重は、正平二十三年(一三六八)鹿嶋大総行事に任じられて、子孫が世襲をした。幹重より七世の孫を義幹という。
大永三年(一五二三)義幹は大土木工事を行って城郭を修理した。すると、城門や櫓間にひめがきがあやをなしその美しさは一目見るに値したという。
まず最初に平氏の武将平将門を討って東国で大きな手柄をたてた。常陸国に住む子孫たち、すなわちその支族は繁栄し、それぞれ山城を根拠として鹿島・行方の両方面に広大な領地をもって勢力をふるった。
元亀天正年間(一五七〇~九一)の、いわゆる三十三館とは、おおむねその一族であった。しかし、守護の佐竹義宣は、一族郎党をたたきの一として、ともすれば自分に従わないことをねんでいた。そうこうしているうちにこれを中傷して太閤豊臣秀吉に訴えた。
天正十九年(一五九一)二月、鹿島・行方両郡の城主を常陸太田に呼びよせ、全員を殺害した。義幹の孫の清秀も毒殺された一人であった。佐竹義宣は、すぐに配下の武将国井田備中守に重兵をひきいて来攻させた。
大砲が城壁をうち抜いて、ついに落城し、清秀の妻が死んだ。養和元年(一一八一)よりこの年(一五九一)までおよそ四百一(※注:原文ママ。四百十の誤りか)年である。
慶長の初め、徳川氏は義幹の外曾孫の国分胤光に鹿島氏をつがせ、総大行事・領地二百石を相続し、大宮司並びに神宮の神職につかせた。むかしは朝廷が鹿島神宮にだす奉幣(ほうへい)は、毎年奉幣使を派遣するのが通例であった。
その後、奉幣使に代わって国司を遣わした。やがて朝廷の綱紀がゆるんで、国司が赴任しなくなると、この任務を大掾氏に委任して大使といい、朝廷からの勅使になぞらえた。
その後、大掾氏が同族六家で持ちまわりして当番をつとめたので、みな常陸大掾(ひたちのだいじょう)にがしと仮称した。鹿島氏はその第一の地位にあり、後世流鏑馬祭(やぶさめまつり)大行事としてもっぱらこの行事を司り、もとの家臣を選んで射手にあてた。思うに大使は古来の儀式に則ったものである。
ああ、常陸平氏は一族をあげて、佐竹氏の凶暴な刃にかかった。しかしながら、ひとり鹿島氏だけが神宮に奉仕することによって、家の領地を復興し、厳然として常陸国の一の宮に重臣となって、始祖や中興の祖伝来の古来のしきたりを維持している。
明治維新に際し、所有地を減らし、世襲職を廃止されたとはいえ、士族に列してあたかも鹿嶋城の城跡に住んでいるかのようである。いわゆる鉢をふせたような城跡の地を降りてさえ、その他の所有地がさらに数百畝もあり水田や森林からあがる年貢で衣食を満たすことができる。また祖先の祭祀を行うに十分である。
思うに、祖である桓武平氏の功徳の賜物であるとはいっても、やはり神の加護によるものであることがわかる。今の鹿島幹氏(もとじ)が、威光より十世の孫である。先代の遺跡が、ひょっとすると消滅してしまうのではないかと憂慮し、子の方幹(みちじ)およびもとの家臣の募(つど)いらと相談をして、鹿嶋城址(現在の鹿嶋城山公園)に記念碑を建てて永く後世に伝えようとして、私に碑文の作成を依頼してきた。そこで家系図や系譜等によって鹿嶋城址の碑文をつくった。以上の通りである

明治二十六年七月
鹿嶋 吉川久勁 撰
中村継護 書
鹿嶋市観光協会・鹿嶋市鹿島商工会

現代語訳してもらってもかなり難解ですが、今でも鹿島一族は地元の名士のようですね🤔また鹿島神宮とも関係が深いようです。明治時代の華族の方がここまでの文章を残されることから考えても、地域にはかなり重要なお城だったことが伺えます。

鹿島城址案内文

看板の文字を書き出します。

鹿島城址
(Kashima Castle Ruins, 鹿島城址, 카시마 성)

鹿島城は今から約800年前の平安時代の終わりごろ、平国香の子孫である鹿島三郎政幹が、養和元年(1181)源頼朝より総追捕使(そうついぶし)に任命されてから、ここに城を造り、以後鹿島を支配しました。それから400年たった天正19年(1591)、鹿島清秀父子は常陸太田の佐竹義宣に謀殺され、鹿島城は落城、歴史の幕を閉じました。その後、佐竹氏は秋田へ国替えを命ぜられ、徳川家康は鹿島氏の一族を総大行事職(そうだいぎょうじしょく)に任命し、鹿島神宮の要職に就かせました。
本丸跡には、「鹿島城跡記念碑」が建立されており、城山公園として整備され、桜の名所として市民に親しまれる場所になっています。
北浦湖畔の朱塗りの一之鳥居を望むことができます。

Saburo Masatomo Kashima, who was a descendant of Kunika Taira, built Kashima Castle about 800 years ago, at the end of the Heian era. He built this castle after being appointed as Soutsuibushi (area security and military official) by Yoritomo Minamoto in 1181 and continued to rule Kashima. In 1591, 400 years after the castle was built, Kiyohide Kashima and his son (owner of the castle and ruler of Kashima) were murdered by Yoshinobu Satake of Hitachi Ota. Kashima Castle fell and its history came to an end. Afterwards, the Satake clan was ordered to move to Akita. Ieyasu Tokugawa appointed the Kashima clan to a very important position and they assumed the important office of Kashima Shrine.
Currently there is a memorial monument of Kashima Castle where the inner citadel once stood and the castle grounds are being maintained as Shiroyama Kouen, or Castle Mountain Park. This park has now become a popular place among citizens as a famous place for viewing cherry blossom trees. You can also see the vermillion-lacquered First Gate at the shore of Lake Kitaura from Shiroyama Park.

鹿島城是距今800年前的平安時代末期,平國香的子孫鹿島三郎政幹,養和元年(1181)由源賴朝任命總追捕使之後,在此建造的,管轄了鹿島。四百年之後的天正19年(1591),鹿島清秀父子被常陸太田的佐竹義宣謀殺,鹿島城陷落,落下這段歷史的帷幕。此後,佐竹氏奉命赴秋田,德川家康任命鹿島氏家族為總大行事職,就任鹿島神宮的要職。
在本城址建有“鹿島城址紀念碑”,之後修繕為城山公園,是市民們觀賞櫻花的有名之處。由此眺望,北浦湖畔朱紅色的一之鳥居之景盡收眼底。

카시마 성은 지금부터 약 800 년전의 헤이안시대의 말경, 타이라노 쿠니카(平国香)의 자손인 카시마 사부로 마사모토(鹿島三郎政幹)가, 요와원년(1181)미나모토노 요리토모(源頼朝)로부터 소우쯔이부시(総追捕使)의 임명되고 나서, 여기에 성을 만들어, 이후 카시마를 지배했습니다. 그리고 400 년 경과한 텐쇼 19 년(1591), 카시마 키요히데 후시(鹿島清秀父子)는 히타치오타(常陸太田)의 사다케 요시노부(佐竹義宣)에게 모살되어, 카시마 성은 낙성, 역사의 막을 내렸습니다. 그 후, 사다케(佐竹氏)는 아키타(秋田)로 나라를 바꾸도록 명을해, 도쿠가와 이에야스(徳川家康)는 카시마가의 일족을 소다이교지쇼쿠(総大行事職)으로 임명하고, 카시마신궁의 요직으로 오르게 되었습니다.
성의중심건물인, 「카시마 성터 기념비」가 건립하고, 시로야마 공원(城山公園)으로서 정비되어, 벚나무의 명소로서 시민들에게 친숙 되어지는 장소가 되었습니다. 키타우라코한(北浦湖畔)의 주홍색으로 칠한 이치노도리이(一之鳥居)를 볼수 있습니다.

2014年5月25日 鹿嶋神の道運営委員会

こちらの案内板が簡素すぎるほど簡素にまとめられていますね😅わかりやすくて良いです。学校の歴史で学んだレベルだとこれが限界だと思います。外国人向けに訳したものもありますが、読んでもよほど日本史に興味がないとわからないでしょうね😥

鹿島城址の遊歩道

遊歩道を歩き進めると、エリアによっては違う植物を植えていますね。1周2〜3kmあるので、こういった感じで景観を変えてくれると歩きやすくて良いです。

鹿島城址の遊歩道

それにしても植林が多いですね。これだと夏場でも直射日光に当たらないので歩きやすいです。

祠

遊歩道沿いに祠もありますね。

遊具

鹿島城址の中には大きな遊具も設置されています。通りで子供連れのお母さんやご家族の方が多いはずです。

鹿島城址内にあるトイレと自販機

鹿島城址内には立派なトイレと自販機も設置されています。これなら家族で遊びに来ても安心ですね。

鹿島城址の説明板

看板の文字を書き出します。

史跡 鹿島城址(別称 吉岡城)
鎌倉時代初期約八〇〇年前の昔から、室町時代の天正十九年(一五九一年)に佐竹氏によって落城するまでの約四〇〇年間、この城は鹿島氏(常陸大掾氏族(ひたちだいじょうしぞく))の居城であった。
永正の終りの頃(一五二〇年前後)義幹(よしもと)が大改造をおこない、それが高天原(たかまがはら)合戦(内紛)につながったと鹿島治乱記はいう。
現在本丸跡が城山とされ、二の丸他は県立鹿島高等学校、新町の区域などになっている。
昭和五十九年の発掘調査によって、治乱記でいう萱葺きの痕跡や、地鎮等の祭祀的遺物、墨書土器等も出土した。
城主後裔の鹿島家の協力を得て昭和六十三年より城山公園として開園。毎年整備を進めて四季を楽しめる場となった。特に桜やつつじの頃は、市民の散策する姿が絶えない。
(れ)歴史にのこる鹿島城(鹿嶋市文化財愛護かるたより)

鹿嶋市教育委員会

ここの公園部分は公園なんですね。少し下に高校があったのでそこが二の丸だと結構な大きさのお城になりますね😳発掘したものを見るに、かなり昔からこの地域の中心だったことも伺えます。

植樹

あと鹿島城址には記念植樹が多いのも特徴ですね。それだけ市民がよく集まる場所なのでしょう。

桜に命名

樹齢70年の桜に命名の碑がありました。平成16年ということは今だと90年くらいでしょうか。長生きですね😳

今回は鹿島城址をご紹介させていただきました。鹿島神宮に行った時にふらっと立ち寄ったのですが、地域に根差した城跡ということで取り上げました。もし鹿島神宮に行かれることがあれば立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

宿泊に利用したホテル

鹿島は遠いので「たびのホテル鹿島」に宿泊しました。駐車場も広く朝食のグレードも高くて大満足でした。

<執筆者プロフィール>
予備自補軍曹
経営学修士(MBA)
予備自衛官(技能)
民間人から予備自衛官補(技能)、そして予備自衛官になりました。休日はお城や神社仏閣、戦争遺跡を見歩いているので、面白そうなものを紹介していきます。
姉妹ブログとして優待太郎の名前で「MBAホルダーが保有している株主優待銘柄」も運営しています。

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  • この記事を書いた人

予備自補軍曹

予備自衛官(技能) 経営学修士(MBA) 民間人から予備自衛官補(技能)→予備自衛官になりました。 休日はお城や戦争遺構を訪れて現地を散策しています。その時の写真を多めに執筆しています。

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