八王子城御主殿跡は本丸とは別方向となります。御主殿跡も見応えがあるので分けてご紹介させていただくことにしました。
八王子城の御主殿跡は「東京都八王子市元八王子町3丁目」にあります。
それでは行きましょう。

ここが分岐点となります。道沿いに右に行くと本丸に向かいます。御主殿跡はこの中に入りましょう。

八王子城の概要がタイルに書かれていますね。書き出してみましょう。
八王子城の概要
八王子城の築城と落城
八王子城は、北条氏照(ほうじょううじてる)によって築城された山城(やまじろ)です。氏照は当初、多摩川と秋川(あきがわ)が合流地点にある滝山城(たきやまじょう)(八王子市・都史跡)を居城としていました。
その支配地は八王子はもとより、北は五日市(いつかいち)・青梅(おうめ)・飯能(はんのう)・所沢の一帯、南は相模原・大和から横浜の一部にまで及んでいました。
氏照が居城を滝山城から八王子城に移した動機は、永禄12年(1569年)武田信玄が滝山城を攻撃し、落城(らくじょう)する前にまで攻められたことから、強固で広大な八王子城の築城を思い立たせたといわれています。
築城の時期は明確ではありませんが、元亀(げんき)から天正初め(1570年代)に築城が開始され、天正年間の中頃に氏照が八王子城に移ったと考えられています。
天正16年(1588年)には、豊臣秀吉の来攻に備え、兵糧(ひょうろう)の確保や兵士とその妻子を入城を命じ、守備固めの準備を急いでいます。
天正18年6月23日、小田原在城の城主氏照を欠いたまま、豊臣秀吉の小田原攻めの一隊(いったい)前田利家・上杉景勝などの軍勢の猛攻を受け、一日で落城しました。八王子城の落城は、小田原城の開城をうながし、豊臣秀吉が天下を統一する上に、大きな影響を与えました。
城主・北条氏照(1540 〜 1590)
北条氏照は戦国時代の武将で、小田原に本拠を置く北条氏三代当主氏康(うじやす)の次男として生まれました。初め大石源三(げんざ)、その後北条陸奥守(むつのかみ)とも名乗っています。永禄の初め(1559年頃)、大石(おおいし)氏の後を継いで滝山城主となり、周辺に支配を拡大しました。その後栗橋城(くりはしじょう)(茨城県五霞村(ごかむら))を勢力下におさめ、この城を拠点として北関東一帯の領土拡大にも活躍しました。
天正18年(1590年)7月、小田原城の開城後、氏照は兄氏政(うじまさ)とともに、豊臣秀吉から切腹を命じられて、その生涯を終えました。
地名の由来
北条氏照が、新しく築いた城の守護神(しゅごしん)として八王子権現(はちおうじごんげん)をまつり、この城を八王子城と呼んだのが、八王子という地名の由来であるといわれています。
北条氏略系図(概要)
- 初代:早雲
- 二代:氏綱
- 三代:氏康
- 子:氏政(四代)、氏照(滝山・八王子城主)、氏邦(鉢形城主)、氏規、三郎(上杉景虎)など
- 四代:氏政
- 五代:氏直
年表(抜粋)
西暦 北条氏関係 主要な出来事 1540 この頃北条氏照生まれる。 1543 ポルトガル船が種子島に漂着。(鉄砲伝わる。) 1546 北条氏康、上杉朝定・憲政を破る。(河越夜戦)
*滝山城主・大石定久、北条氏に降る。氏照、大石氏の養子となる。1549 フランシスコ・ザビエル鹿児島に上陸。(キリスト教の伝来) 1559 氏照、滝山城主となる。 1553 川中島の戦い(〜1564) 1560 北条氏邦、鉢形城主となる。 1560 桶狭間の戦い。(織田信長、今川義元を破る。) 1569 氏照、上杉謙信と和睦。(越相同盟)
*武田信玄、滝山城下に迫る。1568 信長、足利義昭を奉じて入京。 1571 氏康死す。氏政が継ぐ。この頃から八王子城の築城にかかる。 1573 浅井・朝倉両氏、滅亡。 1582 甲斐に出兵。徳川家康と和す。 1582 本能寺の変。太閤検地始まる。(〜1598) 1590 八王子城落城。(6月)
*小田原城開城。氏政・氏照、切腹する(7月)。1590 豊臣秀吉、天下統一成る。秀吉、徳川家康に関八州を与える。 English Text
Hachioji Castle was founded around 1570 by Ujiteru Hojo. Japan at that time was in a state of civil strife due to ruling feudal lords trying to conquer the sovereign status through military power.
Ujiteru Hojo was one of the powerful feudal lords of the Hojo Clan who placed his foothold in Odawara (currently Odawara City in Kanagawa Prefecture) and ruled the surrounding region.
In 1590, Hachioji Castle was invaded by the army under Hideyoshi Toyotomi, who later unifies Japan as the Shogun, and thus, fell in the hands of its enemy in one day.
【地図・イラストキャプション】
- 八王子城からの景観
- 滝山城イメージ図
- 北条氏の最大領域(1589年頃)
- 八王子城イメージ図
八王子城についての概略ですね🤔

こちらは八王子城の縄張について書かれていますね。書き出してみましょう。
八王子城の縄張
八王子城の構造
八王子城は、深沢山(城山)山頂に本丸を置き、周辺に延びる尾根や細かく入り組んだ谷、麓の平地など、自然の地形を利用して築かれた戦国時代の城郭(じょうかく)です。城の構造は、山頂や尾根は平らに削り(あるいは削り取って)大・小の曲輪(くるわ)を何段にも並べ、建物を作りました。谷間には盛土(もりど)して平地とし、館(やかた)を構え、麓には屋敷割をして城下町をつくりました。山中を流れる城山川は堀として利用し、橋を架けることによって、防御の大きな役割を担っていたと思われます。
八王子城跡は、約154haにもおよぶ広大な範囲が史跡の指定を受けていますが、その周辺にも当時の遺構が残っています。想像以上に大規模な縄張(なわばり)であったことがうかがえます。
八王子城は、その地形的な特徴や、防御の方法を考えると、いくつかの地区に分けられます。本丸など主郭(しゅかく)を中心とした山頂付近とそれに続く尾根に造られた要害地区、御主殿跡(ごしゅでんあと)など館跡(やかたあと)と見られる居館地区、城下町となる根小屋(ねごや)地区に分けられます。その範囲は少なくとも、東西約2km、南北約1kmにおよんでいます。
現在でも、建物などを建てた曲輪の跡、石垣や堀切(ほりきり)、土塁(どるい)や通路の跡など、当時の遺構がよく残っています。八王子城跡は、全国的にみても、これら戦国時代の遺構をよく残す代表的な山城跡(やまじろあと)といえるでしょう。
要害地区
要害地区は、急な斜面で守られた城山山頂から尾根の上に造られています。山頂付近には本丸・松木(まつき)・小宮(こみヤ)曲輪(くるわ)があり、西側には詰(つめ)の城と呼ばれる曲輪が残っています。
合戦の時に籠城(ろうじょう)して戦うところで、兵糧(ひょうろう)を入れる倉庫などが建てられていたと思われます。今でも2カ所に当時の井戸が残されています。
居館地区
城山川沿いの山腹に御主殿(ごしゅでん)と呼ばれる大きな館跡と、その東側にアシダ曲輪(くるわ)と呼ばれる曲輪が残っています。
御主殿跡は城主・北条氏照の居館跡(きょかんあと)とされ、アシダ曲輪は有力な家臣の屋敷跡(やしきあと)と考えられています。
御主殿跡の調査では、大きな建物の跡や石を敷いた通路、溝などが発見されており、庭園もあったようです。
根小屋地区など
城山川に沿った、中宿(なかじゅく)付近が根小屋地区と呼ばれ、城への大手口(おおてぐち)として城下町の一部を形成していたと思われます。また、城山川の南側には細い尾根に連続して曲輪(くるわ)と堀切(ほりきり)が走り、太鼓曲輪(たいこぐるわ)と呼ばれています。その他、小田野(おだの)の曲輪群や、恩方(おんがた)方面の搦手口(からめてぐち)にも多くの遺構(いこう)があり、城全体の守りを固めていたと思われます。
調査と整備
八王子城跡の調査は、昭和52年(1977年)以来継続的に行われ、現在に至っています。発掘調査などの結果からは、大規模な普請(ふしん)(造成工事)が行われていること、石垣など当時としては最新の技術で造られていることなどがわかってきました。また、御主殿跡は15m以上も盛土(もりど)して館(たて)を構えていることが確認されました。内部に建物の跡や石敷きの通路なども発見されています。
現在八王子市教育委員会では、これらの調査結果をもとに、史跡の保存と活用を目的に、当時の八王子城の再現を目指して整備を行っています。今後とも広く市民に公開し、八王子の大切な歴史遺産として、保存と活用を図っていく考えです。
【中央・縄張図】
- 史跡指定地は約 154 ha
【右上・出土品キャプション】
- 板碑、小皿など:根小屋地区出土品
- 土弾:御主殿地区出土土弾
【右下・写真キャプション】
- 古道で発見された門跡
- 御主殿礎石建物
- 敷石部分(東から)
- 御主殿礎石建物跡(北から)
【英語テキスト / English Text】
Hachioji Castle was a fortress constructed during the age of civil strife that effectively takes advantages of the surrounding natural geography to protect its castle grounds.
The Honmaru (dungeon) was established on the summit of Mt. Fukazawa (Shiroyama) and the grounds include ridges extending around the periphery, narrow slitting valleys and flatland around the skirts of the mountain. The castle was constructed by carving the summit and ridges flat and by placing numerous layers of large and small barricades around the fortress. The ravine has been raised as flatland, in which manors were established and housing was allotted around the skirt to create a castle town. The Shiroyama River flowing through the mountain was used as a natural moat around the castle and played an important role in guarding the grounds from enemies by constructing a bridge across the river.
Hachioji Castle has been appointed as a historical relic extending over a vast range of area measuring approximately 154 hectares, and numerous ruins still remain in the periphery, further emphasizing the incredible scale of the site as it was back in its days of glory.
八王子城の調査はかれこれ50年近くやっているのですね😳それでもまだ完了していないのは、どれだけ広大だったのでしょうか🤔それでは御主殿跡に向かいましょう。

ここから八王子城御主殿跡に向かいますが、ここにはボランティアのガイドさん達も待機しています。ガイドさんがいないとみられない場所もあるので、詳しく見学したい人は声をかけるのもいいかと思います。事前予約だと間違いないですが、日によっては予約が少ないと大丈夫な時もあるようです。あとトイレもここしかないので済ませておきましょう。

八王子城御主殿跡に向かう道は整備されており、車が通れるほど広いですね。

道は川沿いを歩いていきます。なんという川なんでしょうか🤔

この川の名前は「しろやまがわ」と言うそうです。一級河川の上流端になるんですね。さすがは山城ですね☺️

しばらく歩くと橋が見えてきましたね。分岐点のようですね。

この橋を渡るそうです。

橋を渡ると大手門跡になります。なかなかいい眺めですね☺️

大手門跡です。ぐるっと道がありますね。それにしてもここは広い空間ですね。動画でお伝えしたいと思います。
いかがでしょうか。結構広いですよね。

この場所に大手門があったようです。看板があるので見てみましょう。

こちらが看板になります。書き出してみましょう。
国指定史跡 八王子城跡
大手の門跡
- Ruins of Front Gate of Castle
- 大手之門殿址
- 정문 터
昭和六十三年(一九八八)の確認調査でその存在が明らかになりました。以前から八王子城の古図などで、このあたりに門等の施設があることは予想されていました。
発掘された礎石や敷石などから、いわゆる「薬医門」と呼ばれる形状の門と考えられています。
【コラム枠内のテキスト】
コラム 大手と搦手
一般的に、城の裏門にあたるところを「搦手(からめて)」と呼びます。なぜ裏門を搦手と呼ぶのかというと、正門に攻めてきた敵を背後から“搦めとる”軍勢が出撃するためという説があります。そのためか、正門は追手(おうて)がなまって「大手」になったともいわれています。
八王子城の搦手は、城の北側の恩方方面にあったといわれ、滝の沢口ともいわれていますが、滝は落ちるという意味に通じるので、当時は霧降ヶ谷(きりふりがや)と名前を変えたともいわれています。
八王子市教育委員会
昭和63年(1988年)度調査
大手の門跡平面図
昭和63年(1988)の調査では、20cmから30cm大の表面が平坦な石を床に敷詰めた門跡が見つかりました。この石より一段高くなるように、門の礎石が確認されています(上図赤色部)。礎石は敷石より一まわり大きい石を用いており、一番大きい礎石は70cm×70cmの大きさがありました。
【写真キャプション】
- 調査地近景(東より撮影)
敷石まであったようですね。かなり立派な作りだったのでしょうね。それでは進んでいきましょう。この先は古道と言われているようですね。

古道から下を見ると高低差がよくわかりますね。ここに攻め込んできたら、いい的ですね😂

古道は高低差の少ない道ですね。

古道の看板がありました。書き出しましょう。
国指定史跡 八王子城跡
古道
- Old Path
- 古道
- 옛길
戦国時代に御主殿へ入る道として使われていたと考えられています。
御主殿側の道は江戸時代に新たに作られた林道で、城山川をはさみ、御主殿とは対岸にあるのがこの古道です。当時は、さらに下流の方へと続いていたと考えられています。
途中の木橋を架けてある場所は、敵方の攻撃を阻止するために掘削された堀切です。
【コラム枠内のテキスト】
コラム 曳橋
古道から御主殿へ渡るために城山川に架けられた橋です。
橋の土台である橋台部が残っていただけなので、どのような構造の橋が架けられていたかはわかっていません。
現在の橋は、当時の道筋を再現するために、現在の技術で、戦国時代の雰囲気を考えて架けられました。
八王子市教育委員会
元々はこちら側にしか道がなかったのですね🤔

こちらが曳橋です。資料がないので当時とは違うそうです。またこの高さについても、作業のためのクレーン車が通れる高さにしているそうです。ただこれだけの距離があると、当時としては作るのも相当大変だったのではないでしょうか🤔

ちなみに曳橋を下から見るとこんな感じです。結構でかいです。

御主殿への経路について看板がありますね。書き出しましょう。
御主殿への経路
【本文】
御主殿へは、城山川上流域を越えて向かうため、このあたりに橋が架かっていたと考えられています。しかし、当時の正確な場所や構造、名称はわかっていません。
これまで使用していた「曳橋(ひきはし)」という名称は、江戸時代後期の地誌『武蔵名勝図会』の記載によるものです(文政三年脱稿:1820)。右下の拡大図にあるような、すぐに壊すことができる簡素な橋が架けられていたと考えられています。
今回整備した橋は、当時の復元としてではなく、見学者が御主殿跡へ行くための通路として城山川に架けたものです。
平成 28 年 3 月
八王子市教育委員会
【右側・図版の解説文】
■ 右上図キャプション
「八王子城本丸跡荒涼ノ図」
(『新編武蔵国風土記稿』文政5年:国立公文書館所蔵)
※『武蔵名勝図会』は、同じ挿絵が使われています。
■ 右下図キャプション
「八王子城古図」(個人蔵)
(慶安元年:1648)
■ 右下部注記
落城後の八王子城を描いたものには、「八王子城古図」のほか、「武蔵名勝図会」、「新編武蔵国風土記稿」などがあります。
「曳橋」の名称を記載しているのは、「武蔵名勝図会」だけです。
曳橋は名前すらほとんど残ってなかったんですね😱

こちらも曳橋に関しての説明ですね。書き出しましょう。
橋台(きょうだい)石垣と曳橋(ひきはし)
城山川の両岸の斜面に、橋を架けるための橋台(きょうだい)石垣が発見され、御主殿(ごしゅでん)へわたる橋の存在が確認されました。当時はこの橋台に簡単な木橋を架け、この橋(曳(ひき)橋)をこわすことによって敵の侵入を防いだものと考えられます。
橋台は、検出した石垣の崩れた部分を新たに補い、想定復元したものです。また、橋そのものは現代の工法で建造したものですが、史跡の景観に合うよう木造にしました。
【写真キャプション】
- 検出した橋台石垣
実際の戦争の時は橋を落としたのでしょうか🤔

それでは曳橋を渡りましょう。かなりがっしりした造りですね😳

石垣が何層にも積み重なってできていますね。

真下には川が流れていますね。上から見ても結構高いですね😨

橋を渡り終えました。こちらは石垣で固められていますね😳

ここの石垣は見応えがありますね。お城好きには堪らないエリアですね☺️

石垣をアップで撮影してみました。かなりゴツゴツした石や薄い石を組み合わせて作られていますね。

石垣の説明がありますね。書き出しましょう。
築城当時の石垣
この石垣は、土の中に 400年間くずれずによく残っていたので、検出したそのままの状態にしてあります。戦国時代の石積様式(いしづみようしき)を示す全国でも貴重なものです。
その特徴は、この城山(しろやま)山中から産出する砂岩(さがん)を利用して、ひとつひとつていねいに積み重ね、その隙間(すきま)には小石を詰めて全体として強固な石垣としていることです。また、石垣の勾配(こうばい)が急なこと、石垣の裏側にたくさんの砕(くだ)いた石を入れていることも特徴です。
【イラスト・写真のキャプション】
- 左側イラスト内:
- 復原整備した部分
- 検出したままの部分
- 右側写真内:
- 検出した石垣
この石垣は400年前のままなんですね😳

ここからは御主殿虎口になります。すごい石積ですね😳

御主殿虎口の説明がありますね。書き出しましょう。
御主殿虎口(ごしゅでんこぐち)
城や曲輪(くるわ)の出入口は虎口(こぐち)と呼ばれ、防御(ぼぎょ)と攻撃の拠点となるようにさまざまな工夫がこらしてあります。
御主殿の虎口は、木橋をわたった位置から御主殿内部まで高低差約9mを「コ」の字形に折れ曲がった階段通路としていることが特徴です。階段は全体で25段、踏面(ふみづら)が平均1m、蹴上(けあげ)が36cmで、約5mの幅をもっています。途中の2か所の踊り場(おどりば)とともに、全面に石が敷かれているのは、八王子城独特のものです。
【写真キャプション】
- 検出時の虎口石敷階段
結構広いですね🤔それでは登っていきましょう。

櫓門が見えました。

櫓門についての説明がありますね。書き出しましょう。
櫓門跡(やぐらもん)
この踊り場からは、4つの建物礎石(そせき)が発見されました。両側の石垣の下に、敷石の面より10cmほど高くなっている大きな石がそれです。礎石の間は、東西(桁行(けたゆき))約4.5m、南北(梁間(はりま))3.6mあります。想定される建物は、通路の重要な位置にあることから、物見(ものみ)や指揮(しき)をするための櫓門(やぐらもん)であったかもしれません。また、礎石のそばには、排水のための石組側溝(そっこう)も発見されています。
この礎石や石組側溝、大部分の石垣や敷石は、当時のものを利用しています。
【図版・写真内のテキスト】
- 左側平面図:建物礎石 / 階段 / 踊り場 / 階段 / 敷石踊り場
- 右側写真:検出時の踊り場
櫓門についても正確なところはよくわからないのですね🤔

御主殿跡につきました。めちゃくちゃ広いですね😳

御主殿跡の整備について説明されていますね。書き出してみましょう。
御主殿跡(ごしゅでんあと)の整備(せいび)
ここは八王子城の中心ともいえる場所で、城主北条氏照の居館があったところであり、御主殿跡とよばれています。
平成4・5年度、平成25年度に実施した発掘調査では、「主殿」「会所」と推定される大型の礎石建物跡や、池を中心とする庭園、敷石通路、水路等の遺構が検出されました。主殿では氏照を中心にして政治向きの行事が、会所では庭園を眺めながら宴会などが行われたと考えられます。
今回の復元的整備事業では、これらの遺構の上に60cmの盛土となるよう造成工事を行い、その整備面上に建物の礎石、庭石、通路の敷石、水路等を忠実に再現して表示しています。
全体が発掘され、会所と推定できる礎石建物跡は、整備面から50〜80cmの高さに床面を再現し、敷居、間取りも表してあります。
庭石、建物の礎石、通路の敷石、水路に使用した石材は、近隣で採取された八王子城跡と同種の硬質砂岩を使用しています。整備面より突出する庭石は、コンクリート製の擬岩(GRC)で覆ってあります。遺構の確認された範囲には、小舗石を並べてその範囲を明示しています。
なお、まだ全容が明らかになっていない池跡については整備せず、一度埋め戻しました。
平成26年9月 八王子市教育委員会
【左側・分布図のテキスト】
八王子城跡御主殿遺構分布図
- 現在地(赤色マーカー)
[凡例]
- □ 平成25年度調査範囲
- ■ 遺跡解説板
- ■ 解説サイン
[遺構番号一覧](※図面下の細かい文字のリスト)
- SB01=大型礎石建物跡(会所)
- SB02=大型礎石建物跡(主殿)
- SB03=礎石建物跡
- SB04=礎石建物跡
- SB05=礎石建物跡群
- SB06=礎石建物跡
- SB07=礎石建物跡
- SB08=掘立柱建物跡
- SG01=庭園
- SS01=敷石通路
- SS02=砂利敷通路
- SS03=敷石通路
- SS04=敷石通路
- SS05=通路状遺構
- SS06=砂利敷通路
- SS07=砂利敷遺構
- SS08=通路状遺構
- SJ01=敷石水路
- SJ02=敷石水路
- SJ03=敷石水路
- SJ04=敷石水路
- SJ05=敷石水路
- SJ06=水路
- SJ07=石組水路
- SJ08=石組水路
- SJ09=石組水路
- SJ10=水路
- SK01=土坑
- SK02=土坑
- SK03=土坑
- ST01=塀
- ST02=塀
- ST03=塀
- SX01=(※文字が細かく判読困難ですが、出土壙に関する記述と思われます)
- SX02=石製型枠状遺構
【右下・写真キャプション】
- 会所周辺全景
- 礎石建物跡(会所)
- 庭園
結構忠実に再現させているのですね🤔

主殿跡には敷石が置かれていますね。見てみましょう。

主殿の説明ですね。書き出しましょう。
主殿(しゅでん)
主殿は中心となる建物で、政治向きの行事が行われたと考えられます。
広さは15間半×10間(29.4m×19.8m)で、折中門(おれちゅうもん)とよばれる玄関から入ります。大勢の人が集まる「広間」や、城主が座る「上段」などがあります。
建物は平屋建てで、屋根は瓦ではなく、板葺(いたぶ)きか檜皮葺(ひわだぶ)きと思われます。
平屋建てなんですね。瓦にしなかったのは何か意味があるのでしょうか🤔

この窪みは塀跡だそうです。書き出しますね。
塀跡(へいあと)
土色に舗装した部分が塀の範囲を、着色した部分が柱穴の位置を示しています。
発掘調査時に、内部が空洞になった円形の柱穴が7カ所一列になって検出されました。
落城の際に柱の根元が焼け残り、その後その柱が腐り、空洞化したものと思われます。
【写真内のキャプション】
- 柱穴
落城後はそのままだったのですね😥

こちらは道路状遺構です。書き出しますね。
道路状遺構(どうろじょういこう)
この道路状遺構は幅が約3.2m、確認された長さは15mで、南西側の調査区外へ続いています。北東側と南東側はそれぞれ石囲い水路に、北西側は石列によって区画されています。
路面は平坦ですが、突き固めている様子は見られませんでした。
固めていないところをみると、普通の庭手入れ作業用でしょうか🤔

こちらは敷石通路ですね。説明を書き出します。
敷石通路(しきいしつうろ)
会所の建物に沿って幅4.2m、長さ19.2mの範囲に石が敷かれています。
敷石通路には2本の溝を伴っています。北側の溝は会所の雨落溝(あまおちみぞ)と考えられますが、南側の溝の性格は不明です。
この敷石通路は会所にともなうもので、何らかの儀式に使われたものと思われます。
記録が残っていない以上、不明な点はどうしようもないですね😥

御主殿だけあって出土品もあったようですね。書き出します。
舶載磁器集中出土域(はくさいじきしゅうちゅうしゅつどいき)
東西約 7.5m、南北約 4mの範囲に、約34,000点以上の遺物が集中して出土しました。ほとんどが焼き物の細かい破片でした。
舶載磁器とは主に中国で焼かれた磁器で、青花(せいか)や白磁(はくじ)の皿や碗(わん)などです。
焼き物のほかには、銭(ぜに)、鉄釘(てつくぎ)なども出土しています。
この遺構の性格は不明です。
【写真キャプション】
- 上の写真:接合作業前の磁器細片
- 下の写真:復元された青花皿
中国製の磁器がここまで届いていたんですね😳焼き物がほとんどなんですね🤔

現地ではARで想像図を見ることができます。私は撮影しまくったせいでバッテリーがヤバい状態でしたのでできませんでした😥
最後にこの広い御主殿跡を動画でお見せしますね。ベンチもあるので助かります。
それでは滝に向かいます。

こちらが御主殿の滝です。ちょっと離れていますね。

アップで撮影してみました。結構な水量がありますね。
動画で音を確認していただくとよくわかると思います。高さも水量もしっかりとありますね。

水量が多い時の写真がありました。長雨の後は水量がやばそうですね😱

御主殿の滝についての説明がありますね。書き出しましょう。
国指定史跡 八王子城跡
御主殿の滝
- Waterfall of Main Palace
- 主殿之瀑
- 본전의 폭포
天正十八年(一五九〇)六月二十三日の豊臣秀吉の軍勢による攻撃で落城した際に、御主殿にいた女性や子ども、将兵たちが滝の上で自刃をし、次々と身を投じたといわれています。
その血で城山川の水は三日三晩、赤く染まったとの言い伝(つた)えが残っています。
【コラム枠内のテキスト】
コラム 氏照の暮らしぶり
戦国時代はいつも合戦とその準備をしていたイメージがありますが、八王子城から出土した遺構・遺物から見てみると、そのイメージとは程遠いものです。
中国から輸入された五彩(ごさい)で華やかなお皿で、領国内から取れたアワビやサザエなどを食べたり、ベネチアで作られたレースガラス器や信楽焼き(しがらきやき)の花器を飾り、そのもとお茶をたしなみ、枯山水(かれさんすい)の庭を眺めてお酒を飲んだ日々が思い浮かばれます。
これらの品々は、さぞ北条氏照の心を和ませていたのではないでしょうか。
八王子市教育委員会
この滝には壮絶な歴史がありますね😱女子供は御主殿にいたのでしょうか🤔しかしこの川が血で染まったと思うとめちゃくちゃ怖いです。

こちらは慰霊碑のようです。今でも祀ってくれる人がいるようですね。
今回は八王子城のうち御主殿跡と滝を紹介させていただきました。八王子城については八王子城の攻城戦を軽く学ぶくらいですが、実際に現地を見るとかなりすごい戦だったことがよくわかりますね。
八王子城に関する施設
近隣観光地のご紹介

<執筆者プロフィール>
予備自補軍曹
経営学修士(MBA)
予備自衛官(技能)
民間人から予備自衛官補(技能)、そして予備自衛官になりました。休日はお城や神社仏閣、戦争遺跡を見歩いているので、面白そうなものを紹介していきます。
姉妹ブログとして優待太郎の名前で「MBAホルダーが保有している株主優待銘柄」も運営しています。
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村

